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鈴木庸生(人名検索)

遺稿 「石炭と石油とを掘り尽くした暁」

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  理化学研究所に於ける業績  講演速記録「時局と化学振興に就いて」鈴木庸生
 本稿は昭和15年12月29日、丸の内工業倶楽部講堂で衆議院議員高見之通氏を会長とする「使命会」会員に講演された時の速記録である。
  
 今日はお招きに預かりまして光栄の至りに存じます。私共はこういう席に参りまして喋るということは慣れないことでありますけれども、時局柄科学振興の声が大きくなりましたに依って、ただ少しばかり科学者としての科学振興をお話したいと思います。それで科学振興に就いても色々な結果から見て色々な考えが浮かぶで御座いましょうけれども私の考えて居ることは実は科学者でありますので科学者としての見方でありますからそのお積りでどうかお聴ききを願い度う存じます。

 科学と申しますものは時局とどう関係があるかというと、時局柄科学の様な難しいものは同でも宜しいので、時局に直接関係のあることとしては科学の原理を応用しさえすればそれで先ず一応その目的を達成するのであります。科学の原理を色々の事物に応用してその事柄をやりますれば先ず宜しいのであります。しかしながら科学の原理と申しましても数多くあります。その数多い原理を尚一層数多くし様という為に科学振興ということが始まって来たのであろうと思います。科学と申しまするものは物に対する認識を深め、物に対する知識を得るのが目的であります。それから物の裏に隠れて居ることろの法則であるとか、原理であるとかを見出すということもまた一つの目的であります。それで物対人、物対我れが科学の本当の本分であります。それで物が無ければ科学は成り立たない。我れが無ければ科学は成り立たない。それで物と我れと相対して初めて科学が成り立つのであります。それでこの科学者というものは物と離れては到底その存在を得ることが出来ないのであります。それで科学をやる為には沢山のの物が要ることであるのであります。それで御存知の昔、ガリレイという人がお寺の軒灯篭が振って居りますのをよく見て居って振子の動く時間が何時でも同じものである事を見出した有名な話がありますが、これは御承知の事だろうと思います。しかしその昔の時代とは余程変わりまして、今は色々のものを研究するに当たりましてその物を色々違った状況に於いて見なくてはならぬのであります。或いは温度を上げて見るとか、或いは温度を下げて見ますとか、或いは圧力を加えてみるとか、或いは圧力を減じて見るとかいう具合で、色々な状況に置く必要がありますから、従ってその状況に置くためには仕掛けも要ります。それから機械も要ります。又化学の研究をやります時には幾千種という薬品が要るのであります。それ等のものが無ければ科学というものは成り立つことが出来ないものであります。それで物対人、物対我れの実現を図る為には我れというものはこういう我れではいけないのであります。もう少し立派な我れで無くてはいかぬ。科学的精神の極く発達した人でなくちゃいかぬのであります。それからそのままに、色々の万物を並べて初めて科学が成り立つのでありますから、科学の振興の第一意義は物を供給するということであろうと思うのであります。

 それで日本の之までの科学はどういうものでありましたかと申しますと中々科学は発達して居った、外面を観た時は非常に発達して居ったのであります。例えばお医者さんにしましても色々新しい療法を発見致しまして、或いは新しい薬を発見したりします。それから私は専門が化学であります。それで日本の化学も大分発達したと称して居ったのであります。よくよく考えて見ますとこれは皆、外国依存の化学でありまして、一つ物を研究し様としてその機械を買おうとしますとどうです、やはり外国から機械を取り寄せて、外国から機械が着いたらこういう研究が出来るいう様なことを臆面もなく当たり前のことの様に言って居ったのであります。それからお医者さんにしましてもそうで、皆ドイツから品物を取寄せて、ドイツの本を読む、ドイツの言葉迄も使うという次第でありまして日本の医学が発達したと言うてもこれはドイツの医学の上塗りをしただけでありまして、その実質に於いては何等発達を見せて居ないのであります。丁度荒屋がありましてその荒屋にベニヤ板を貼ってその上にペンキを塗って新しいカフェーの店を開く、それと同じ様な状態になって居るのであります。それでありますから今この際に外国からの品物の輸入がスッカリ切れました際には手も足も出ない様な状態になっておるのであります。それで東京はまだ宜しいのでありましてまだまだ資料が多少は得られるのでありますが、地方のの大学とか研究所とかに行って見ますともう何も物が入らないので、それで唯、本を見るとか−−その本も近頃は追々来なくなるという様な訳で唯ボンヤリして新聞を見て煙草を吹かしている状態に置いてあるのであります。それでその科学を振興するという場合には只今高見さんも仰いました通り、鉄からこしらえて掛からなくてはならない訳になって参ったのであります。屑鉄依存位のことはもう思い切って止めてしまって、山に行って石を堀出し石炭で焼く、又一方は粘土をこねて耐火レンガで炉を築いて鉄を入れて石炭をくべて焼くという決心でやらなくては到底物資の欠乏は−−人に未練を残して居っては到底助かるまいと思うのであります。

 それで例えば生物学者の非常に良く使います顕微鏡にしても矢張り外国製の顕微鏡が主に用いられて居るのであります。それから天文学者の使う望遠鏡にしても外国製の望遠鏡より外、用いるものが無いという訳で、それから物理学者の使うところの色々の計器類なども皆外国製であります。それから化学者の使う幾千種の薬品というものが皆外国製でありますから詰まり、我国の科学というものが外国依存の科学であったということが今にして初めて気が付いたのでありまして、之を日本のものにするというのが科学振興の一策であります。又物を供給するという事が科学振興の一策である。私はこれより外には科学振興、我国の現在に於ける科学振興をやる方法はないと断言しても差支えないと思うのであります。
  
 それからこの科学というものは色々なものの裏にあるところの原則を見出そうというのでありますから、その色々の物が研究の対象となるのでありまして、物故されましたがある有名な日本の科学者が椿の花が秋、冬になりますとポトンポトンと落っこちる。その落っこちる様をよく眺めて見まして、表をを向いて落ちるのもあります。裏を向いて落ちるのもある、その数を数えて始終椿の花と睨めっこして居られたのであります。そうすると何か原則があり、定則があるだろうかと思って椿の花を観測されて居ったのであります。その椿の花の観測ということは何の必要があったかはその人それ自身でなくてはわからぬことでありまして、他人を詮索或いは他人がそれをのぞき見るべきことではないのであります。何故かと言うとそれは本人ばかり知って居るのであって他人は全く知らないことである。そういう様なこともあります。それからまた人間の血液の中にヘモグロビンという赤い色素が入って居る、その色素が一定のものであるかということを確かめる為にヘモグロビンの結晶を三百
何十回かやって−−やる度にそのヘモグロビンの結晶の中の鉄分を定量しまして三百何十回と結晶をやって初めて純粋のヘモグロビンを取り出して、血液の中にはヘモグロビンが存在するということを決めた学者があります。そういう具合に手数が掛かる。非常に時間も掛かる、それでありますから国民生活が今日の様に逼迫して居っては到底悠長な科学の研究は出来ないのであります。それで、科学の発達した模様を見ますと矢張りこの国民生活に多少の余裕がある国、例えばイギリス、フランス、ドイツ、スエーデン、ノルウエー、デンマーク、ベルギー、アメリカという様な国に科学が発達しまして、その他の国には科学らしい科学というものは余り発達して居らないのであります。それで、科学というものは国民生活に余裕があって初めて出来ることでありまして、これは生活の華であろうと思うのであります。そのことを振興し様というのでありますから余程難しい問題には違いないのである。

 この我国に於きましては国民生活が大分逼迫して来た様でありますから、そこに悠長な科学問題を出しましてそれでその科学を振興し様というのは余程難しいことの様に思うのであります。それで線刻申しました通り科学者には物を与えれば宜しい、それで科学の目的の大部分は達せられるということを申しました。それで仮に物が先ず相当に集まりますものとして研究所が出来る。或いは各大学の教室で充分に研究が出来るかというと、世の中の統制家は統制を、科学研究にも統制を加えるというのでありますが、この統制というものはこの頃流行ででございまして随分色々な統制が行われて居りますが、これを科学にも持込もうと言われて居ります。この統制は中々難しいことがありますので、先ず実験室をこしらえる、研究所を造るとしてその中に今やらなくてはならない研究と今やらないでもう少し延ばしても良い研究だという様なことを決め様とする論者がある。ですが、これはやって見ますと非常に矛盾や難しいことが起こるのであります。総合的な研究であればこれは容易に出来るのであります。例えば一方には飛行機の研究をして居る、他方、凧の研究をやっている、凧の原理も飛行機の原理も同じであります。その科学の原理を応用してやる研究に就いてはいくらも重点主義−−所謂重点主義が見出されるのであります。飛行機の研究と凧の研究と両方でやっております場合、凧の研究は後で良いから飛行機の研究を先にやってくれということを言われるのであります。その原理の研究になるとどうもどの研究がが重要であるか、どの研究が重要でないかということは一寸申し切れないのであります。

 その例を申上げますとドイツにフィッシャーという人がおりまして、人の尿の中に入っている尿酸というものの研究をやって居った。その尿酸を色々煮たり焼いたりしまして、その結果を見て尿酸の分子の価値ということを研究して居った。その研究は一見人生に必要もない。常人から見ますと可笑しい研究であったのであります。その研究をやっている間に一寸ヒントを得てフェニールヒドラジンというものを作り出した。フェニールヒドラジンは我々には何の結果も無い。皮膚に付けると少し痒くなる位のものでありまして全く人生とは関係も無いようなものでありますが、フェニールヒドラジンを砂糖に加えて見ますと色々、砂糖が分かれまして、砂糖の何十種という変わった種類があるということが初めてわかったのであります。その砂糖の中に黍<キビ>とか麦わら取れるキシロースという砂糖があるのであります。そのキシロースに少し手を加えて加工しますとヴィタミンCが出来るのである。ヴィタミンC といいますと身体の栄養には極必要なものでありまして、ヴィタミンCを呑むと疲れが直ぐ癒ります。只今陸海軍など盛んにヴィタミンCを用いる様になりましたが、ヴィタミンCがどうして出来たかというとこれは尿から始まった訳でありまして尿とヴィタミンCの間ににどういう関係があるかということは神様でなくては研究段階ではわからないのであります。段々研究を続けてやって行きました結果として現れる。つまらない研究だと思ってもそれが将来詰まる研究になるかも知れません。今詰まる研究だと思ってもそれが何等の結果を持たないことも沢山あるのであります。それでこっちの研究は不必要だから止めてくれという人に対してはその研究がが続けられていれば将来、人間のために極く偉大な効果、貢献をする研究の下地ともなったらうという場合に大いに責任を感じなくてはならないことになりますから、この研究は不必要な研究だといって必ずしもそれを打ち捨てる訳にはいかないのであります。
 それで、統制をやります場合にはどの研究も有益な研究であると思うのが平等の重みを以て考えて呉れなくては困るのであります。

 それから石炭液化の研究でもやはりそうでありまして、一番はじめにフランスのベルトゥローという化学者が沃化水素というものを−−それは塩酸によく似たものでヨードと水素と化合したもので、その沃化水素に石鹸を粉にしたものを混ぜて管の中に入れて温めると石炭が液化するということを発見した。同時にヨードが出て来るということを見付けたのであります。こういう研究はその当時考えますと非常に不急な研究であったのであります。100グラム5円も6円もする沃化水素で石炭を粉にしてその中に加えて熱します。これは誰が考えて見てもどうも有益とは思われないのであります。しかしながらその研究をベルトゥローという人がやったのであります。この人は化学者であると同時に政治家でありまして日清戦争後3年間フランスの外務大臣であった人であります。
 それから又フランスの人でポール・サバティエという人が色々の有機物にニッケルの粉を混ぜましてそこに水素を通すとよく水素が化合するということを発見した。それも実験室の中でやることでありまして、色々な有機物を集めて来まして、それにニッケルの粉を加えて水素を通して水素が化合するといって喜んで居った次第であります。
 そうするとベルトゥローの研究もポール・サバティエの研究も、何等人生に直接の利益をもたらす研究ではない、ただ実験室の中でやっている者の心を慰める。満足を与える位の効能よりなかったものであります。今度はその二つをもってきまして、石炭に水素が化合すると液化するということはベルトゥローが考えております。それから有機物にニッケルの粉を入れ水素を通すと水素がよく化合するということをポール・サバティエという人がやった。今度はドイツののベルギゥスが出てきて石炭を粉にしてそれにニッケル粉を混ぜてそうして水素を通しますれば石炭が液化しやしないかという考えを起こしまして、そうしてその実験をずっとやって見ました。そうしたとこが、あの石炭が水素と化合して液化する様になりました。それで初めて今日の石炭液化の根底を開いたのであります。
 そういうもので総て科学の研究というものは一つの研究が踏み台になって、それにまた一つの研究が上に乗り、また一つの研究が上に乗り、最後にようやく人生に必要な研究が結果となって現れるのでありますから一寸見て不必要と思っても実は中々必要な研究が結果となって現れるのでありますから兎に角研究する項目は多いのは望ましいのです。それから研究する人間も多いことが望ましいのであります。

 それからもう一つの例をを申上げますとクルックスというイギリスの人でありますが、この人が真空管のガラスの中に両極から電気を通して、一寸ネオンサインの様な訳でありますが真空管から色々な種類の光が出て来るということを見出したのであります。そういうことが出来ましてからドイツのレントゲンが真空管の実験をやって見ましてX光線が出て来るということを発見したのであります。クルツクスはまだ実験室内の遊戯的にやったことでありますが、それがレントゲンに依ってX光線が出て来るということが分かりまして、そうしている中に多少の実用に供するようになり、今結核などの診断にはレントゲン写真を撮るというようなことでレントゲン線というものは随分行われて居ります。レントゲン線に良く似た光線でウラニュウムというものから出るものがあります。フランスのペックレルという人が見つけましたのでそれはベックレル線という名前を付けている。コノベックレル線が色々のものから出るのではないかというので色々のものを研究して見たのであります。ウラニュウムから一番よくベックレル線が出るというので、マダム・キューリーという女性学者がそのウラニュウムを段々追及してその中に一番余計に出る部分を探したのであります。そうして初めてラジゥムというものを発見した。このラジュムはベックレル線の出ることが百万倍のウラニゥムから出る強さのものでありまして、そのウラニゥムが段々余計得られるに従って、その作用も段々研究され今では癌の療法には欠くべからざるものになっているのであります。実験室内でチョコチョコやっていた事柄が将来になって非常に大きな事柄を生み出す可能性があるのでありますから、この科学振興を目的とすると研究の項目を出来るだけ多くして、又研究に従事する人を出来るだけ多くする。無論それに資材を供給しなくてはならないことは言う迄もないことでありますが、そうして初めて目的を達せられることであろうと思うのであります。

 それから又統制を加えますのに丁度色々な研究を碁盤の目の様にずっと重点主義でおやりになって、その中に色々な人を片っ端から配置して行って立派な研究所をこしらえ様という考えを持っている人がありますが、これは非常な誤りでありまして、一つの研究とその研究をやっている人というものは離れられない様な関係があるのです。物対我れでその我れの中に気に入らないものはどうしてもやる気がしませんし、我れの気に入らない研究はしようと思ってもする勇気ががないものであります。科学者というものは極一途な性質なものでありまして中々融通性は少ないのであります。それで研究者が自分で選んだ研究項目を研究するより外は本当の研究は出来ないだろうと思うのでありまして、研究に人を配置してもその効果を挙げられるものでもありません。又その人選に当たっては非常に細心な注意を持って決めなければ相当の効果が挙がらないだろうと思うのであります。又統制家の言うのには機械設備が一箇所それぞれあるということは国力の濫費である。費用が余計掛かるから、ここの機械はこの機械で、別のところは又異なった機械を置いて、こちらの機械が要るときにはこちらに人が行って研究する。あちらの機械が要る時はあちらに人が行って研究すれば良かろうという様なことで、今居るところにはそういう仕掛けは造ってはいかん。あすこにあるから造ってはいかんという様な事を目論んで居る人もある様でありますが、これも研究的の方からみるといけない事であります。それで物の試験を致します事とは違うのであります。これは根本的に違いまして試験をしてその結果をずっと並べるのが主であります。研究というものは一定の機械でない。機械を造ってそれを一遍使って見てそれからここが悪い、あそこが悪いと、事情をかえて又それを使って居ります。そういう具合にして一刻一時も休みなくその機会がずっと変わりつつあるのであります。そういうものでありますから、この機械を使えと言われても、ある人が使って、しばらくする全く別の機械になってしまう訳でそこに元の機械と思って他のひとが来るとさっぱり当てが違うということになりますから、その機械に融通性も非常に少ないのであります。そこで昔から名人名工といわれる者は決して自分の使っている道具を他人に貸すということはしないものである。それと同じ様に科学者も使って居ります道具や機械は他人には貸すことを嫌がるものであります。又他からかりては自分の思う通りの研究は出来ないということでありますから、こうゆう事柄も統制をやる場合には考えて貰わなくてはならないことであります。

  それで先ず大体、私の望みだけは申上げましたが、更に科学人であります。科学に従事する人間を養成しなくてはならない。これなくして科学振興というものはとても行われない。この人間を養成する場合には又それぞれの資材が要りますから、この点も余程考えねばならないことと思うのであります。各学校の教室等に資材を供給し、資材を十分に扱ってやらなくてはならないのであります。それで今日の資材の少ない世の中には資材の割当ということが非常に困難になりましょうからこれも科学振興上一大問題であろうと思うのであります。それで要するにこの科学の振興としましては、科学者に物資を与えることが一番必要である。それ以外に進行の方法は先ずないと言っても差支えないのであります。金が物資に変わらない
様では幾ら金を貰いましても科学の振興はどうも出来なかろうと信じます。物を貰って、物と金と二つ貰えば一番良く振興が出来る。そういう結論にになって来ます。

  それから外国依存の研究を全部止める、というと無理であるかも知れませんけれども、今のところ国内で各薬品とか機械の製造の源がないから外国依存に依って居るのでありますが、これ等の製造を先にしましてそれから、おもむろに科学の研究に取り掛かるのが一番であろうとおもうのであります。それから科学人を配備する。配備の模様もよくその研究に適当した人間を配備する必要があろうと思います。それからもう一つは科学人の養成であります。是は各学校に資材を多く配給してやりまして、そうしてその科学の研究を行わせるという事が必要であろうと思うのであります。それで今日は大河内先生がここへお出で下さる訳でまりましたが、折悪しく旅行中で御不在でありましたので、私が代わりをしまして、大河内さんとは真に雲泥の違いで下手な講演を致しまして、大河内さんの意志も付け加えまして講演をした訳でございますが、御静聴を汚しまして甚だ有り難く存じて居ります。